2015年8月30日

8月30日

ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません【1コリント9:26】

私たちの体を造られた主は、その体がさまざまな衝動的な欲求を持つことを許されました。しかし、覚えておきましょう。主は、体が私たちの召使いとなるように造られたのであって、主人となるようにされたのではありません。本当にこの通りになるまで、私たちは与えられた主への奉仕を行うことはできません。競争に入る者について、パウロはこう警告します、全てのものが賞を得ることはないと。そのために、パウロは、一人一人の競争者が、自分を鍛えることの大切さを強調しています。

キリスト者の働き手の体が、誰が主人であり、その主人に従うべきであることを教えられていなかったとしたらどうでしょう。その場合、日々の平凡な生活の中で、普通ではない命令が来た時に、それに応じることが、果たしてできるでしょうか?主は、神の働きのために、時にそのような命令をすることがあります。パウロは禁欲的だったわけではありません。パウロは、他のものと違って、体は邪魔なものであるとは教えていません。むしろ彼は、信者の体は聖霊が住むところであると言い切りました。それでも、福音を伝えるものとして、目標に達するためには、鍛錬し、自分を鍛えることが大切さであると確信していました。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。