2015年8月12日

8月12日

自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい【ルカ9:23】

聖書の中で、私たちはキリストと共に、『十字架につけられた』と言われていますが、それは罪との関係で起こったことではありません。罪からの開放とその成果は、私たちにとって既に完成された事実です。それを実現するために、人は何も要求されていないのです。どのみち、何もできないからです。人間がすべきことは、ただ信仰を持ち、キリストの働きが、既に十字架で完成されたと認めるだけです。そうすることで、人はその死から収穫を得るのです。

聖書はこう語っています。十字架を取り上げるのは、自己を否定すると言う意味があり、そして、これが私たちの変わらざる態度であるべきです。主イエス様は数回にわたって、自分についてくるように語っています。ここで説明されているのは、神は私たちの、『罪』と、私たちの『自己』に完全に異なったかたちで対処してくださることです。罪を克服するには、信者はただ一瞬でこと足ります。自己を否定するためには全人生が必要です。主イエス様は、十字架の上でただ一度だけ、私たちの罪を背負われたのに対し、自己を否定することには全生涯をかけました。私たちにも同じことが言えます。すなわち、自己の否定は、主とともに長い時間をかけて経験することです。私たちは日々、主に従います。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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