2015年8月11日

8月11日

しかし、御霊の実は…自制です【ガラテヤ5:22-23】

このリストの一番最後にあげられたものは自制です。したがって、これはキリスト者の霊的な歩みの頂点に来るものです。聖霊による私たちの統治と、よく言われますが、それは、主が私たちのあらゆる部分を直接、支配されるということではありません。この誤解はキリスト者を、受け身の姿勢へ、もっと悪い場合は、欺瞞へと誘い込んできました。その終点に待っているのは、絶望です。しかし、御霊が人を自制へと導いてくださると知っている者は、霊的な成長へと向かう道を進んでいます。

信じる者となった私たちの新しい心を通して、御霊が支配されます。創造における神の目的は、人間を完全に自由な意思で行動するものとすることでしたし、贖いの目的も全く同じでした。キリスト者は機械のように神に盲従することを要求されてはいません。人は、神の御心を、自分の意志で、進んで満たす特権を与えられています。新約聖書に書かれているさまざまな責任を、果たすことも拒否することも完全に自由なのです。それはいのちと敬けんさにおける責任であり、もし、自分の意志でする働きを、神がすべて滅ぼそうとされるなら、そこには何の意味もありません。肉か御霊か?選択するのは私たちです。そして御霊の実は自制なのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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