ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか【ヘブル6:1】
キリスト者の生活において、礎をなす真実はほんの少しです。礎とは、ただ一度だけ置かれるものです。しかし、それは、しっかりと据えることが必要です。すなわち、初めの原理が極めて大切です。
現代のキリスト者が犯す間違いは、1世紀のヘブル人が犯した間違いとは全く違うものです。彼らは、礎を据えながら、その周りをまわり続けるだけで、先へ進まないと言う危険に陥りました。一方で、私たちが直面している危険は、正しい礎がまだおかれていないのに、先へ踏み出そうとすることではないでしょうか。今日では、あまりに急いで進もうとしたり、基礎が作られていないうちに、先へと走り出すものがいます。私たちがすべきは、そのような人をキリストのもとに呼び戻すことです。キリストだけが、神に『試みを経た石、堅く据えられた礎の尊いかしら石(イザヤ28:16)』だからです。使徒たちは、初歩の教えを後にして、先へと進むように人々を促しましたが、私たちは彼らに元に戻るよう求めるべきなのかもしれません。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』