2015年6月9日

6月9日

たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、私の心のままにすることはできません【民数記24:13】

バラムの言葉は、彼の口から神の言葉が発せられたときのみ、預言となります。彼は神の霊が降りた時にだけ、自分の良心の状態にかかわりなく語ります。語っているのは、自分の言葉ではなかったのです。神が、彼の口を借りて自分の言葉を発していたに過ぎないのです。バラムが、そこに自分の考えや感じ方を加えようと思ったら、その瞬間、神の言葉ではなくなっていたでしょう。

神の言葉が、主イエス様を通して伝えられるときは、まったくこれと違いっていました!かつて、神はご自身の言葉を広めるために、人間の声を用いてきました。最後の預言者であったバプテスマのヨハネでさえ、荒れ野を渡ってくる声に過ぎなかったのです。しかし、主イエス様のみもとに来る時、主の心がどこまでも変わらないことを見て、私たちは、主が生ける神の言葉であることを語らずにいられなくなります。主が口を開かれるとき、そこには神の言葉がありました。しかし、神が口を閉じたままでいられる時も、その言葉は、主の素晴らしい人格の内に生きていました。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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