モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった【エレミヤ48:11】
この節で語られている情景には説明が必要です。かすの上にじっとたまっているぶどう酒(発酵の過程で生じるもの)は、もう熟しきって変わることもなく、上の層は澄んでいますが、下には苦い沈積物があって、入れ物を揺らすと全体に濁りが生じます。ろ過する技術がなかった時代には、ひとつの入れ物から、静かに別の容器に移し替えることで、葡萄酒の濁りを取りました。しかし、どれだけ熟練したものがやっても、少しはかすが残ってしまいます。何度もこの移し替えを繰り返して、かすを取り除いててあげないと、いやな味が残ってしまいます。
モアブはイスラエルの血のつながったいとこでしたが、この訓練から逃げてしまいました。イスラエルのように、ふるいにかけられ、苦悩を通して、浄められたことがなかったのです。神がその苦い味が残っていると言われるのは、このためです。神が、今日も少し、明日はもう少しと私たちを訓練されることには意味があるのです。その目的とするところは私たちの中にいる救い主、主によしとされる人格、主の御心の喜びです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
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