2015年6月16日

6月16日

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます【1コリント 3:14】

この火の試練の意味をよりよく理解するには、甦られたキリストの目が、『燃える炎のような』ということばで表現されていることを思い出すとよいでしょう。いずれくる裁きの時には、主は私たちの働きを、すべてをつらぬく光で探し出しますから、主の尺度が完璧なものであることは間違いありません。このためにこそ、私たちは今、日々、神の光のもとに来て、自分の働きが『神にあってなされた』ものであるか確かめているのです。

私たちは将来、神の賛辞を受けられるでしょうか。それは、今、どれだけ、主の御心を行って、主を喜ばせているかによって決まります。もちろん、私たちが受ける報いはどうでもよいことです。私たち全員の真の目的は主の御心を満足させることです。救われた人たちはすべて、主に喜んでいただくという同じ願いを持っているはずです。こうして、裁きの座は、私たちが目指す目的地となり、そこでは主が受け入れてくださるという約束が待っているのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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