すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲んで来た【2サムエル23:16】
神の言葉のなかに、人が受ける苦しみについて語っているところがあります。そこでは、苦しみは神の子供たちが自分から望んで選択したのもので、それを通して神への奉仕となることを乞い求めているとみなされています。苦しみは無理やり負わされるもの、負わされていやいや従うようなものではなく、喜んで選びとるものです。ダビデの配下の勇士ちは、このようなかたちで危険に身をさらす必要はなかったのですが、主君が望まれていることを知ると、それに答えるためにいのちをも惜しまなかったのです。
キリスト者は、苦しみを進んで受ける心を持つべきです。神は、私たちの苦しみに限界を設けてくれます。しかし、私たちの側で、主のあかしと人の救いのための苦しみに、どこまで絶えようかと言う限界を決めるべきではありません。苦しみを受ける時は、感傷的な気持ちで行わず、苦難に立ち向かう精神を持って行うべきであり、その精神がある者には、苦しみを計算したり、怖気づいてしまう心はありません。すべては、キリストへの愛のために行われるのです。
ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』
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