2015年6月5日

6月5日

あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません【ヘブル12:4】

キリスト者が苦しみを受ける意味はどこにあるのでしょう?殉教者にでもならない限り、私たちが罪に抵抗して戦っても、血を流すところまではいきません。それでもなお、私たちは与えられる役割に不平を漏らします。私たちはこの人生で、栄光の道を行くことを期待しているのでしょうか?白い衣に身を包み、天国の門に至る黄金の道をゆったりと歩きたいとでも思うのでしょうか?

神はあらゆる種類の環境、あらゆるかたちの出来事、そして多くの苦難を用意されました。これは、主の子供、一人一人のうちに人格を植え付け、それを通してご自身の栄光を現すことを目的とされています。苦しみを受けるのは、主に認められている証拠なのかもしれません。罰を受けることは愛のひとつのかたちです。愛は測り、愛には計画があります。神はすべての人にそうされないかもしれませんが、ご自身の子供として受け入れた者は必ずこのよう扱われます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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