2015年6月7日

6月7日

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました【ピリピ4:11】

パウロはキリストを知っていただけではなく、長い時間を経て、彼自身の存在の中にキリストが働くことを経験を得たのです。『私は学びました』と彼は言っています。文脈から判断すると、これは、肉体的な欠乏を経験したことを指しています。そのような経験を通して、時間はかかったとしても、前を向いた、非常にはっきりした変化が、彼の人格の内部に起こったのです。これこそ、私たち自身が必要とすることです。ただ、入れ替えられたいのちをもって、私ではなくキリストであると言うだけでなく、造り変えられたいのちを持つことです。もちろん、その一番目がなければ、決して二番目はありません。しかし、神は本当に二番目を求めておられるのです。主は私たちが本当の意味で造り変えられることを望んでおられます。

神の私たちに対するはたらき方を誤解しないようにしましょう。神が、特別な苦難と試みを与えるなら、そこには特別な目的があるのです。価値のある器や、よく整えられた道具は高い値段を払わなければ作ることはできません。安く作ることができるのは、質の悪い品物だけです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

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