2015年12月31日

12月31日

(あなたがたが)彼らの間で世の光として輝くためです【ピリピ2:16

ろうそくは、すべて燃え尽きるまで、光を発しつづけます。同じように、人の証しも、死ぬまで続くべきものです。ろうそくの明かりを灯し続けるためには、完全に燃え尽きる前に、他のろうそくに火を移さなければなりません。ろうそくから、ろうそくへと火を移していくことで、光はいつまでも輝き続け、やがては世界を照らし出します。教会の証しもそれと同じです。

神の御子がこの地上に来られたとき、主は数本のろうそくに、火をともしました。後に主は、パウロの中のろうそくに火をつけ、もちろん、他にも多くのろうそくを灯しました。それから2000年に渡って、教会の光は、ろうそくから、ろうそくへと燃え続けています。多くのものが、他の誰かに火を点けるために、いのちを捧げてきました。はじめのろうそくが、消えかけても、二本目のろうそくが灯り、そうして、絶えることなく燃え続けてきました。ですから、前に出て、主を証ししてください!主の証しが、絶えることなく、地上で輝くようにしましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月30日

12月30日

いなごが、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう【ヨエル2:25

愚かなことに浪費してしまった歳月を思い出しては、心を痛めることがありますか?それなら、その時間を償ってくれる神の力を知って、慰めを受けられることに感謝しましょう。『ああ、』私たちは嘆きます。『私たちの人生の最も良い時期は、いなごに食い尽くされてしまった。あの時間はもう失われ、取り返すことはできない。どうすればいいのだろう?』これに対する答えは、『何もしなくてよい!』その年月を取り戻してくれるのは神です。無駄に過ごした時間と言っても、私たちが失った10年は、神の目には一日の価値すらないかもしれません。しかし、これから先は、その時間を神のために使うことで、取り返せるのです。そして、一日が、1000年にも等しい価値を持つものとなるかもしれません。

地上の一日は、天国では24時間単位で刻まれてはいないからです。むしろ、神はご自分の心のものさしで計られます。私たちの奉仕が主の御心に沿ったものであれば、元気を出しましょう。1時間が、主にとってどれだけの長さに当たるのか、誰に分かるでしょう?

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月29日

12月29日

イスラエル人に言い、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ【民数記19:2

イスラエルの他のいけにえは、その場その場の必要を満たすために捧げられたのに対し、この赤い雌牛は違いました。この牛は、これから後に、起こる出来事のために捧げられたのです。雌牛の全身が焼かれ、集められたその灰が、器に保存されました。必要が生じたときは、その灰に湧き水を加え、汚れた者に振りかけて、その人を清めるために使われました。

その灰は、全てのあがないの御業を象徴するものだったのです。人が汚されたときもに、自分で新しい雌牛を屠る必要はなく、この水を振りかけてもらうだけですみました。これをキリスト教に当てはめるなら、今日の信者は主イエス様に、もう一度、働いていただく必要はありません。人を清めるキリストの働きはすでに完成しており、消え去ることのない灰と生ける水がそこにあるからです。神がキリストにおいてなしてくださった償いは、必要な時はいつでも、目の前にあるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月28日

12月28日

信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた【使徒4:32

この群れの者たちは、永遠のいのちを受けたときから、全ての持ち物を手放すようになり、きわめて自然なかたちで、財産を投げ捨てました。今日、主を従うようになった私たちも、同じように考えるなら、今、持っているものを主の御手にゆだねることは、きわめて自然なのではないでしょうか?

笑われるかもしれませんが、私の個人的な生活から、ひとつ言わせてください。20年近くに渡って、私は何でも半ダースくらいをまとめ買いすることを習慣にしてきました。例えば、安全カミソリの刃を買うときは、1ダースを買います。自分のためにだけ、買わないようにするためです。もちろん、カミソリの刃を何千人という兄弟のひとりひとりに渡すことはできませんが、自分の分を使う前に他の兄弟にあげたら、私はそのカミソリは自分だけのものだという間違った考えを持たずにすみます。これは小さなことですが、こうすることで、神に対して、所有権を主張することがなくなったのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月27日

12月27日

もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります【第1ヨハネ2:1

主がなされたことは、私たちが犯した罪を完全に許し、あらゆる不義から清めることです。聖書に、『すべての』と書かれているのですから、間違いなく、神はすべてを指しておられます。主の言葉を、小さく考えないようにしましょう。主は私たちの全ての罪を許されるのであり、過去の罪だけでなく、今日、この日までも犯している罪、自分で気付いている罪だけでなく、知らずに犯している罪をも許されます。

『もしだれかが罪を犯したなら。』神は、私たちが罪を犯してはならないと語られました。主の偉大な許しを知るとき、それに対する感謝が、いつも心を研ぎ澄まし、ふたたび罪を犯すことのないよう自分を律してくれます。しかし、キリスト者が罪を犯したとしても、父との仲介をしてくれる方、義であるイエス・キリストがいるのです。それは、『父の御前で』という言葉にも表されているように、家族の問題なのです。神との間に、親子の関係を結んで間もない最も小さな信者でさえも、無条件の許しが与えられています。御子が、取りなしてくださるというこの事実が、それを保証しています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月26日

12月26日

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます【ピリピ4:7


『神の平安』とは、特定の状況で、神が私たちに授けてくださる平安ではありません。それは、神ご自身の平安であり、まさに、ご自身の性質の中から生まれる平安です。神の平安は何物にも破られることがありません。神が、御使いを作られ、また、反逆者たちが、秩序を乱して、宇宙の隅々まで力を及ぼした時も、その災厄が主を遮ることはできませんでした。主は、先へと進まれ、ご自身の求めるものを理解されました。破壊された地上を修復し、その後、生けるものの新しい支配者、すなわち、人を作り出されたのです。



その後、人間もまた、堕落してしまいました。しかし、神の平安は乱されることなく、守られました。私たちは、神がすぐに働かれて、この誤りを正してくださればよかったのではないかと、思うかもしれません。しかし、神はそうしませんでした。神は、『時が満ちる』まで待って、失われたものを回復するため、御子を送られました。何千年も待つことは、神の平安を揺るがすことにはなりませんでした。神が約束されているのは、祈りの中で、全てを主にゆだねることのできる者には、主の平安がその心と考えを守ってくださることです。



ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月25日

12月25日

その名はインマヌエルと呼ばれる。訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である【マタイ1:23

あがないの働きの成就は、この赤子がベツレヘムに来られたときに始まりました。神のはたらきは、いつも、ひそやかに、小さなところから、始まるものであり、この中にも、その性質が、はっきりと現れています。この比類なき子供が人類に加わったとき、数人の信心深い羊飼いだけが、証人として招かれました。これにより、永遠なる神の御子は、それから後、人の子と名のることができたのです。イエス様ご自身が、この呼び名を受け入れ、それを喜ばれたようです。本物の神でありながら、主はこうして、本物の人間となられたのです。

インマヌエルという呼び名は、イエス様がこの地上におられるあいだは、誰にも理解されず、身近ににいた人もこの名を使わなかったようです。十字架と五旬節の後で、信者たちは、主が持つ多くの名前の中で、最も尊いものとして、この名を唱えるようになりました。主は、愛された弟子たちへの約束の言葉のうちに、この名を刻みました、『見よ。わたしは、いつも、あなたがたとともにいます。』主がここに、『世の終わりまで』と、付け加えられたので、私たちも、主を、いつまでもともにおられる方、インマヌエルと呼ぶことが許されています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月24日

12月24日

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません【ヘブル4:15

主イエス様が、大人としてこの世界に入らなかったのは何故でしょう?なぜ、主は、赤子として宿り、母の胸に抱かれて乳を飲みながら、少しずつ成長していく必要があったのでしょう?なぜ主は、30年以上に渡って、この世の苦しみを通らなければならなかったのでしょう?地上に来て、3日後に十字架にかけられたら、ずっと簡単に、あがないの御業を成就できたのでないでしょうか?実は、主が、懲らしめを受け、困難、憤りと失望を味あわれたのは、あなたや私の苦しみに同情するためでした。

同情とは、憐れみの心であり、『ともに苦しむ』ことです。主は、あなたと同じように感じるのです。主はいつでも、あなたの弱さに同情しておられます。あなたが犯す罪にではなく、あなたの体の苦しみ、あなたの魂の苦悩に、同情しておられます。主はそのすべてを経験されたのです。主は、あなたを救う恵みだけでなく、あなたに同情する心も持っています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月23日

12月23日

わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい【雅歌6:4】 

天の御国で、はじめて、聖徒たちはキリストとひとつに結びつくのですが、そこでさえ、恐ろしい力を持った敵の攻撃を受けることになります。信者たちは、天なる美しさだけがあればよく、主の戦いのための霊的な強さは必要ないなどと、神は考えておられません。大きく掲げられた旗は勝利のしるしです。敗れた者は、旗を巻き取って、しまい込むしかありません。キリストが愛した人々は、天国で大きな力を現し、勝利に満ちた軍隊として行進するよう定められています。

それでも、この言葉の中で、彼らは、ティルツァにも例えられています。美しい場所として知られていたところで、神の街、エルサレムのように愛らしいと、歌われています。このふたつに、相反するところはありません。神にとって美しい教会は、敵から見れば恐るべき相手となるからです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月22日

12月22日

地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです【ヘブル11:13

旅人であり寄留者でもあるとはどういう意味でしょう?例で説明してみましょう。私がイングランドに滞在していたのは、ミュンヘン危機の少し前で、人々は塹壕を掘り、隠れ家を用意し、毒ガス対策のマスクを配って、戦争に備えていました。その時、私の思いは、イギリス人たちとは全く違っていました。私は、政府間の合意文書に署名されたというニュースが入ってくるまで、彼らが戦争の用意をしているのを、眺めていました。その夜は眠れないものが多く、歌ったり、叫んだりしていました。

しかし、私はどうだったでしょう?自分では動かず、ただ、見ていました。周りが、戦争に備えるのに忙しくしている間、私は冷めた気持ちで見ていました。そして、彼らが平和を喜んだときも、冷静にそれを見ているだけでした。私は、滞在客だったのです。すぐに、よそへ行ってつもりでした。喜び、また、悲しむ人々の中で、私は傍観者に過ぎませんでした。そこで、よそ者であるとはどういうものか、理解したのでした。イングランドに対する私の態度は、中立的なものでした。その国がよくなること、平和であるよう望んではいましたが、私の思いは他のところにありました。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月21日

12月21日

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった【黙示録2:4

『初めの愛』という表現は、時間的にな意味で最初であっただけでなく、その中身のことも言っています。放蕩息子の帰郷のたとえ話の中で、父親は『一番良い着物』を持ってこさせて、この悔い改めた息子に着せました。これは同じ言葉です。初めの愛とは、一番良い愛でもあります。

エペソのこの教会の悲劇は、一度は、自分たちの持てる最上の愛を主に捧げていたのに、後には、その献身から離れ去ってしまったことです。しかし、希望はありました。失ったものを、いつでも取り返せるとは限りませんが、進む方向を踏み違えた地点に戻る道はどんな時も、開かれているのです。主は、さまようひとりひとりが、かつて、主をもっとも愛した経験へと立ち返るように、初めの愛に戻るようにと、呼びかけておられます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月20日

12月20日

わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た【第二列王記20:5】

神が私たちの涙を見ているとは、なんとありがたいことでしょう。ヒゼキアは祈り、涙を流しました。そして、神はそれに応えました。このような、涙のうちにする祈りは、神の心を動かすことがあります。あなたの心を動かすことができないものは、神の心を動かすこともできないでしょう。人の前で泣くことは、自分の弱さと人間的な力の欠如を現すかもしれませんが、神の前で流す涙はそうではありません。

はっきり覚えておきましょう。神の前で流されなければ、涙に価値はありません。すぐに、涙を流す人もいますが、泣くことで、その人の悲しみや苦悩が現れるだけなら、それは、前向きな結果をもたらすことはありません。しかし、祈りを伴った涙には、効力があります。ですから、苦しさのあまり涙を流すのなら、そこに祈りを加えたらどうでしょう?主イエス様の願いは、大きな嘆きと涙とともに神のもとに届きました、主が、怖れたがゆえに、その声は聞かれたのでした。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月19日

12月19日

私たちは、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか【2コリント7:1

私たちは、神に霊を清くしていただく必要があり、それは終わることがありません。神の子供である私たちは時に、キリストの十字架と正面から向かい合いますが、これは、決して無意味なことではありません。そのたびに、自分で気づかなかった欠点が明るみに出され、対処していただけます。痛みが伴うことも多くありますが、そこで、人は新たに清められ、霊は浄化されます。

主の御霊が、何かの欠点を持った人間をすべて拒絶していたら、すべてはずっと単純になるでしょう。肉の働きと、霊がなしたことの境界も明白になるはずです。しかし、実際には、物事はずっと複雑であり、それは、心が清くなく、肉の働きの方が勝っていても、主はあからさまに、人を跳ね除けることはしないからです。主はむしろ、私たちを用い、そのたびに、十字架によって、新たに対処してくださいます。主には用いられても、自分の中の清くないものを、心に留めておくように、気を付けましょう。そして、主が私たちを用いるほど、私たちは自分から進んで、主に清めていただくようにしましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月18日

12月18日

彼女は答えたはしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません【第二列王記

聖霊の働きとは、『空になったところをいつも満たしておく』ことではなく、『満たし続けるために、空にさせておく』ことです。この女の問題は、器が足りないことでした。彼女は、『一つ二つではなく』もっと多くの器を借りてくるように言われました。『多いほど良い』というのです。入れるとこが広ければ、それだけ、そこを満たすものも多くなります。神は、私たちがこの節理を学ぶよう、望んでおられます。

主は、私たちが空っぽになるのを待っておられます。あなたの中に大きな隙間があれば、聖霊がそれをすべて満たして、ご自身の完全さに預からせてくれます。繰り返しますが、私たちは、自分を空にし続けなければなりません。私たちの中に空きができたら、それだけ、神は満たしてくださいます。自分を空にすることは、私たちの責任です。その隙間を満たすことは、神の責任です。神は、飢えた人が、良きもので満たされるところを、見たいと望んでおられます。富んでいると思われるものだけを、主は手ぶらで送り出します。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月17日

12月17日

神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます【ヘブル8:13

使徒行伝21章で、パウロは誓願を立てるために宮に入ります。こうしたのが間違いだったと、性急に決めつけることはやめましょう。神の基準は絶対的なものですが、それをあらゆる時代の聖人に同じように当てはめて考えることを、私たちはしません。究極の目標に向けた主の歩みは、常に進歩してゆくからです。今日のあなたや私に求められているものは、神の完全さに到達することではなく、今、主と歩みを合わせることです。パウロが生きていた時代には、旧約聖書に書かれているとおりに、宮で自分を清めることは、完全に正しかったのかもしれません。しかし、ある時は適切だったことも、後の時代には間違いとなることもあります。

使徒行伝で語られる出来事は、初めから終わりへと進む中で、変わってゆきます。第28章で、この記録が閉じられるところでさえ、御霊の動きは止まることがありません。この潮流は、後に続く世代を通じても進み続けます。そして、前進し続けるご自身の一歩に生涯を捧げる者たちを、神はいつの時代も、引き上げてくださいます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月16日

12月16日

どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか【申命記32:30

キリスト教のユニークな面は、個人的でありながら、同時に、集団としての性質も持っていることです。聖人たちが、共に集うことが大切であるとされています。他の宗教は、信心深くあることを推奨しますが、キリスト教だけは人々が集まるよう呼びかけます。

ここで、ひとりが千人を追い、その一方で、ふたりがその十倍の人数を敗走させると約束されています。なぜ、こんなことが可能なのか、理解することはできません。計算上はあり得ないことですが、これは事実なのです。人間がする計算では、ひとりが千人を追うなら、二人で倒せるのは二千人ということになります。しかし、神は、そうではないと言われます。

神の子供が力を合わせるとき、それより8000人も多くが敗走するというのです。この強さは、二人が合って、共に働いたが故に、増し加わったものです。ですから、私たちも、個人的な恵みだけで満足しないようにしましょう。神は、私たちとともに働くとき、もっと多くのことをなすことができます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月15日

12月15日

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります【ヨハネ7:17

神は人に光をあてて、私たちが、神の御心を知って、その御心を行うことを、真摯に望んでいるかを見ておられます。かたくなな心、また、利己的であったり、自分だけに頼る心は、神の光を遮ってしまいます。本当に主に照らし出してほしいなら、私たちは、情け深く、自分のことを思わず、主だけに頼る者にならなければなりません。

簡潔に言えば、私たちはへりくだっていなければならない。間違いを犯す者だからです。私たちが正しいと判断しても、それはいつも正しいとは限らないし、間違っていると考えても、それは、全く、間違っていないかもしれません。私たちは暗闇を光と捕えたり、光を見て、それを闇だと思い込むこともあります。私たちは、自信過剰で性急な振る舞いをしてしまい、しかもそれが、このような誤りであることがよくあるのです。物事の本質を見せてくれるのは、神の光だけです。純粋に主の御心だけを求める思いをもって、その光を当てていただくようお願いしましょう。キリスト者の生活は、困難、疑い、躊躇や間違いばかりに満ちていてはならないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月14日

12月14日

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい【ヤコブ1:6

昔、あるキリスト者の友人が、すぐに150ドルのお金が入用になりました。そのころ、私たちは、川沿いの村に住んでいて、土曜と日曜には連絡船が運航していなかったのです。その時は、もうすぐ土曜で、その男は、次の月曜までに、お金をそろえる必要がありました。彼は神に祈り、月曜にはお金が手に入るという確信を得ました。彼が福音を伝えるために出てゆくと、窓拭きの男に出会い、掃除の代金1ドルが未払いのままであると言われました。そこで、彼はポケットに残っていた2ドルの中から、そのお金を支払いました。さらに、進んでいくと、一人の乞食が現れ、施しを求めました。ポケットにあった最後の1ドルはとても貴重なものだったのですが、それも全部、この乞食にあげるしかないと、彼は感じたのです。

最後の1ドルがなくなってしまうと、神が来られました。彼は、この上もなく幸せな気持ちになりました。神の他に、何ひとつ頼るものがなくなったからです。彼は、家にかえり、平安な気持ちで眠りにつきました。主の安息日、いつものように彼は、奉仕で手一杯でした。月曜が来ると、思ったとうり、150ドルが電信で振り込まれました。電信での振り込みは、とても高かったのにです。神は、早目に来られることはなくても、決して遅くなることはありません!神は、いつでもいちばん良い時に来られます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月13日

12月13日

あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快い【雅歌1:2

口づけとは、個人的に、心から、自分の全てを相手に預ける行いです。それが意味するのは、ただ一人の相手だけに、自分の心が向けられていることです。(二人に同時に口づけする人はいません!)もちろん、いつどんな時も、ユダがした偽善的な口づけや、パリサイ人シモンがイエス様にし損なった儀礼的なあいさつはあるかもしれません。しかし、そんなものはここにはありません。この言葉は、主に心を捕えられ、他のことを何もかも忘れた人が、すべてを主に捧げる献身の働きの中で語ったものだからです。

そのような人は神との親密な交わりを、待ち焦がれるものです。父の許しの口づけは甘いものでした。しかし、これはそれ以上のものです。これは、神の愛が何にもまして尊いことを理解したものが捧げる献身的な働きに対する、主からの答えなのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月12日

12月12日

人にはできないことが、神にはできるのです【ルカ18:27】 

イエス様がこの前に言われたのは、らくだに針の穴を通ることが絶対に不可能なら、金持ちが神の御国はいるなど、もっとありえないと言うことでした。私たち、キリスト者は誰もが、らくだのようなものです。大きならくだも、小さならくだもいるでしょうが、らくだにかわりはないのです。ペテロはその言葉を聞いて、心を乱されました。ここまで困難な道を進まなければ、永遠のいのちを得られないのなら、誰が救われると言うのでしょう?救われるために私たちは、全てを投げ出さなくてはいけないと言うのでしょうか?

主イエス様はペテロの質問に、一文で答えました、『人にはできないことが、神にはできるのです。』この若い役人の犯した誤りは、金持ちだったことでなく、むしろ、悲しんで立ち去ったことでした。なぜ彼は、恵みを求めて、泣き叫ぶことをしなかったのでしょう?なぜ、神に、人にはできないことをしてくださいと、頼まなかったのでしょう?人が誤るのは、弱さの故ではなく、神に自分を解放してほしいと切実に願っていないためです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月11日

12月11日

なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち…に与えられているからです【使徒2:39】

聖書の子供たちの見かたは、彼らはいつでも、神から私たちへの贈り物ということです。子供たちは、神から私たちに託されているのです。『この子は私のものだ』などと言って、子供が大人になるまであらゆる権限を与えられている、自分だけの所有物であるかのように考えるのはいけないことです。これは、キリストを信じない者たちの考え方です。キリストを信じる者は、誰の子供であっても、親の個人的な所有物とは考えません。子供は、神からの預かりものであり、くださった方のために、大切に守るべきものです。

神ははじめから、子供も独自の権利と特権を持った人として見ておられます。神は、子供が自分を大切にすることを敢えて否定せず、子供の自由を奪うこともなく、また、子供をあなたの手に渡すときも、個々の性質を打消そうとはなさいません。子供とあなたの最善のために、あなたに信頼して預けるのです。わたしは、親たちには、できるだけ、子供を無理に従わせることのないよう教え、まずは、自分たちが主の前に良い親となるようお願いします。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月10日

12月10日

エノクはメトシェラを生んで後、神とともに歩んだ【創世記5:22】

エノクが、65歳になる前のことは何も知られていませんが、メトシェラを生んだ後については、驚くべきことが書かれています。エノクは三百年、神とともに歩んだ後、神に取られたと言うのです。これは、注目に値することです。家族を持つことの重荷がエノクにのしかかったとき、自分にはその力がないことに、彼は気付きました。エノクは自分に科せられた責任があまりに重いと感じたので、神に近づいたのです。

記録に残されているように、エノクが神とともに歩んだのは、メトシェラが生まれた後だけではなく、一人でいるときも、個人的な交わりを保ち続けたのです。神の近くにいない限り、息子を導くことはできないと、固く信じたかのようでした。子供たちが、エノクを進んでいた道から引き離したとも書かれてはいません。この三世紀に渡って、エノクは多くの息子と娘をうみましたが、その間も、神とともに歩き続けていました。親であること自体は、人にとって信仰の歩みの妨げとなってはなりません。むしろ、家族を持つことの責任が、その人の本当の霊的な状態を明らかにするのですから、歩みを続けさせるべきです。この長い旅の終わりにたどりついた時、エノクはいなくなりました。神が取られたからです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月9日

12月9日

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません【ヨハネ4:14】

主イエス様は人々に永遠の満足を与えます。では、私たちがいつも不満を感じているのはなぜでしょう?なぜ、いつも、他の何かを渇望しているのでしょう?この節のみことばを十分、心に刻んでいるのに、そのひとつ前に主が語られたことを見逃したのではないでしょうか?スカルの井戸を指さして、イエス様はこう言われました、『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。』私たちの渇きを呼び起こしたのは、『この水』であり、渇きを満たすことができないのも同じ水です。

満されることはありません。私たちの間違いは、自分の希望を、時とともに消え去るものの上に建てることです。キリスト者としての希望でも同じことをします。だから、いつも失望しているのです。初めのことば、『また渇きます』があってはじめて、私たちは次の、『決して渇くことがありません』へと向かうことができました。主がどこまでも満たしたいと望んでいる私たちは、他のどこからも飲んではならないことを、いつも心に止めておくべきです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月8日

12月8日

無慈悲、憤り、怒り、…などを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい【エペソ4:31】

私はキリスト者でありながら、心のうちに沸き上がる怒りを感じることがあります。聖書の一節を繰り返しても、とても鎮めることはできません。『私の古い人はキリストともに十字架につけられました、』とか、『私は罪に死にました、』といった箇所を、口に出してみますが、結局は、本当に死んでも、自分の気性を消し去ることはできないことを認めるしかないのです!聖書の御言葉を、いたずらに繰り返してみても、何の効果もありません。

キリストの十字架が立てられたのは、私たちの痛みを緩和するためではなく、病に対処するためです。感情を抑えられない病気は、私たちの『自我』と深く関わっています。こんな言い訳をしないように気を付けましょう、すぐにカッとするのは、生まれつきの性質だから仕方ない、のんびしりした人だって取り乱すことはあるけど、その表し方が違うだけだ。どうすれば、自我を否定できるか、知る必要があります。キリストの死が役に立つのはここです。自我を神の前で抑え込むことができたら、怒りやすい気性は自然に消えてゆくでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月7日

12月7日

それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある【イザヤ49:4】

私たちの主イエス様は決して、気を落とすことはありません。ヤコブを神のもとに戻すため、イスラエルを神のもとに集めるために、主は、ここに送られました。しかし、その結果はどうだったでしょうか?うまく行ったようには見えません。確かに、人間の見方をすれば、主は完全に敗れ去りました。ヤコブは神のもとに帰らなかったし、イスラエルは神を受け入れなかったのですから。逆に、ユダヤ人たちはイエス様を拒絶し、犯罪人として殺したのです。

この世界で、人に拒絶され、苦労した働きが何ひとつ実を結ばなければ、私たちは悲嘆にくれ、公正な報いを求めて叫ぶのではないでしょうか。しかし、主はそうされませんでした。主は、ご自身を神にゆだねておられたので、成功しようと、失敗しようと、心迷うことはありませんでした。主が心に止められたのはただ、正しい裁きと報奨を父の手にゆだねることでした。私たちの義が、神とともにあれば、それは揺るぐことがなく、主から受ける償いも必ず受けることができます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月6日

12月6日

彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです【黙示録7:14】

私たちは血を通して清められることで、はじめて義とされます。神が、用意されるのはこの道だけで、他にはありません。私たちの罪だけでなく、行いもまた、清められなければなりません。キリスト者のすることに、初めから白いものはひとつとしてありません。私たちに多少の義があるにしても、そこには不純さがあり、真に清いものではありません。外目には、人に親切にしながら、内心では腹を立てていることがありました。忍耐強く接しながらも、家に帰れば、相手のことで不満を打ち明けたりもします。こうなると、良いことをした後でさえ、血による清めが必要なのです。

したがって、キリスト者の中に、自分で真っ白な衣を織ることのできる者はいません。99パーセント純白の衣を織ることのできたしても(それすらあり得ないことですが)、1パーセントの不純物が混じっているのです。私たちがよい行いをして、それが主への愛から成されたものだったとしても、やはり、尊い血で清められなければなりません。しかし、そうして清められたら、自分が天の白さを身にまとっていることを見出すでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月5日

12月5日

それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、…主が私の神となってくださるので…【創世記28:20,21】

あなたは初めて救われた時、誓いを立てたのではなかったでしょうか。ヤコブのように、神との間に、何かを取引をしたとしても、その時のあなたの心は正しかったはずです。神の定めた道に踏み出した時、神に向けたあなたの願いは正しかったのです。

しかし、あなたもヤコブのようではなかったですか?次の日の朝、彼は自分の立てた誓いをすっかり忘れてしまいました。彼は、東へと旅立ち、神への信頼から離れて、自分の力で成功を掴む道を探りはじめました。ヤコブは、かつて自分を守り、食べるパンと着る着物を賜るよう求めた相手ではなく、彼自身だけに信頼を置くようになりました。これは、私たちの姿そのものではないでしょうか!ヤコブは、神を見ていながら、自分の知恵に頼っていました。しかし、ラバンで、神は、賢いヤコブに、もっと賢いものを備えておかれました。苦難を通して、彼は一歩一歩、自分が立てた誓いへと引き戻され、最後には、自分が神の憐れみを受けるに値しないものであると告白するに至ったのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月4日

12月4日

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう【2コリント12:9】

この経験の中で、聖霊の訓練がパウロを新しい発見へと導きます。彼はすでに、様々なことを経験してきましたし、危険や病いを恐れる男ではありません。しかし、それでも、大きな試練を受けています。肉の中にあるとげは、どこにでもあるとげとは違います。パウロが痛いというなら、それは本当に恐ろしい痛みです。彼はその痛みのせいで弱められます。しかし、まさにその瞬間、神は恵みを与え、彼は、その恵みが、『十分』であると確信します。こうして、パウロは同時に二つのことを発見します。神の力だけではなく、自分の弱さをも見出すのです。そして、恥じることなく、それを私たちに語っています。

教会にいる数限りない聖人たちは、神がパウロに現した啓示によって、試練と誘惑をくぐり抜けてきました。ああ、自分がどれだけ弱いものか、それさえ知っていたら!弱さが私たちを離れるとすぐに、力も出て行ってしまうからです。しかし、パウロが経験したように、口にする言葉を、くぐり抜ける試練が、補ってくれます。それから、私たちが立ちあがり、自分の弱さを認めながら、試練を通して練られた言葉を発するとき、自らも試練の中にある兄弟姉妹たちも、神の恵みと力を受け、苦しみを耐え抜くことができるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月3日

12月3日

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです【マタイ6:21】

ある兄弟がこう言ったことがあります、『私の宝はこの地上にありますが、私の心は天にあります。』このような兄弟は、希な種類として、キリスト者の博物館に陳列すべきでしょう!これは単なる奇跡よりも大きなものです。主ご自身が、ほとんど不可能だと言われたのですから。

マモン(富)とは多くのものが、何年にもわたって仕えてきた偶像であり、富に仕えることが人の心をつかんできました。主の御言葉は率直であり、同時に、確かなものです。人の心はいつでも宝を追い求めます。この事実から逃れることはできません。どれだけ、もっともらしい理由をつけようとも、人は、神とマモンの両方に仕えることはできません。どちらかひとつを選ぶしかないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月2日

12月2日

私の祈りが、御前への香として、立ち上りますように【詩篇141:2】

真の祈りは、心の求めるところから来るものであり、胸に浮かんだ想像からではありません。神の御心を求める、内なる深い思いから生じるものです。だからこそ、詩篇の作者は、自分の祈りが、香としてとして神に捧げられますようにと願ったのです。旧約聖書に出てくる香はすべて、乳香の樹から取られています。採取するためには、樹皮を取り囲んで切れ目を入れます。この切れ目から白い樹液が染み出し、これを材料として、香が作られたのです。祈りとは、その時々に、手のうちにあるものを何でも捧げればよいというものではありません。傷からにじみ出るかのように、心の一番、奥底から、痛みとともに引き出された何かを現すものです。

それは私たちが、よく口にする気軽なお祈りとは全く違います。そんなお祈りは、耳には心地よくても、中身は空っぽなものです!神は、そのような祈りにも応えられますが、私たちの祈りは神に聴いていただくためのものであって、仲間のキリスト者の耳を楽しませるためにするのではないことを覚えておきましょう。そして、神は心に目をとめられます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年12月1日

12月1日

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい【マタイ5:39】

山上の垂訓が私たちに語るものとは何でしょう?主の息子である私たちの中に、神が新しいいのちを植えつけた。そのいのちが私たちに一人一人に特別な何かを要求をする。そして、人に働きかけるときは、その要求を果たさない限り、決して満足してはならない・・・こういうことでは、ありません。垂訓は、私たちが正しいことをすれば、すべてはうまく行く、などとは語っていません。人は、こう言い返すでしょう、『なぜ反対の頬も向けなくてはいけないのか?打たれても、素直にそれを受け、打ち返さなければ、それで十分ではないのか!』しかし、神が言われるのは違います。片方の頬を打たれたとき、頭を下げて、その場を去るだけで終われば、内なるいのちが満足することはないでしょう。

多くの人がマタイ伝5~7章が求める基準は、余りに厳しすぎて、とても、自分の手には届かないと言うのです。これは、確かです。それは不可能なものです。しかし、大切な点はここです。あなたには内なるいのちがあり、どのような問題にあっても、山上の垂訓が求めるとうりにしない限り、そのいのちはあなたの気持ちを安らかにすることはありません。御子のいのちがあなたのうちに求めるものが成ったとき、神はその結果に責任を取ってくださいます。私たちは神の満足を遮ることのないようにしましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』