2015年2月28日

2月29日

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか【ガラテヤ5:25】

御霊に導かれて歩くとは、私たちの全ての行動が、聖霊の原理と道理に従うことを示しています。それが、人生の全てをはっきりと定めるようになります。善と悪には正確に決められた基準があります。天気がよくても曇っていても、正しいものは正しいのです。物事が楽しくても、苦痛であっても、間違っているものは間違っているのです。キリスト者の歩みは明確な基準に沿ったものであるべきです。

感情の中に生きるものは、原則に支配されることなく、浮ついた思いつきの感覚だけに左右されます。気分が高揚したときは、普通なら不合理と分かる行動をとってしまうことがあります。逆に、その人が落胆していると、自分の義務とはっきり知っていることすら、実行できない場合もあります。いのちの御霊の原理は、このようなことに対する神の治療なのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2月28日

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます【ヨハネ12:32】

現代の世界の秩序を超えて主イエスがこう述べ伝えられます、『そしてわたしが…。』この表現は、その前にあるものとはっきりした対照を示しています。この言葉が指し示すただ一人のお方は、敵対者であるこの世の支配者と、対照的な立場におられます。十字架を通して、神の一粒の麦(24節)である主が死に従われ、それを通して、力と恐怖によるこの世界の支配はは終わり、その勝ち誇った支配者も滅びることになります。

そして、キリストが再び人生の中へと飛び込んでくると、義が新しく支配し、人の主への自発的な忠誠が生まれてきます。愛の絆によって、彼らの心は、裁きのもとにある世から引き離され、人の子、イエス様へと引き寄せられます。死ぬために木に付けられたこのお方は、まさにこうして、支配者の位置へと引き上げられたのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月27日

2月27日

悪魔に機会を与えないようにしなさい【エペソ4:27】

私たちの内側に、足場がなければ、サタンも入り込むことができません。このため、サタンはまず、私たちを誘惑し、足を踏み入れる場所を確保します。次に確保したその場所から、攻撃を始めます。悪魔が作戦に使う非常に大きな足場、おそらくもっとも広い土台となるものは恐怖です。

『恐怖は悪魔の切り札だよ。』私の好きだったカウンセラーがよくこう言ったものです。この切り札が心にあると、必ず、悪魔が呼び込むことになります。悪魔は恐れると、入ってきます。恐れなければ、遠く離れたままです。神の子であれば、たとえサタンが獅子のように吼え、牙をむき出しても、恐れる必要はありません。私たちの中には、サタンよりはるかに強いと証明された方がおられるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月26日

2月26日

キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び…【ヘブル5:8】

神への反逆は被造物から来たわけですから、これからは、その被造物の間に従順が根付かなくてはなりません。人は、神に逆らうことで罪を犯しました。ですから、神の権威を人間の従順の上に、新たに立ち上げることが必要です。これが、主イエスがこの世界に入り、造られた人間とひとつになった理由です。主はこの地上に来られ、人間の間に長く根付いていた自分を中心とする考え打ち破るため、へりくだって、神への従順という道を歩みました。ここで注意すべきは、主はただ、地上に従順をもたらしたのではないことです。主はそれを実地に学ばれました。主は苦しみを通してそうされました。

私たちも同じかたちで、従順を身をもって実践することを学ぶことができます。神にとって役に立つかどうかは、私たちが苦しんだかどうかではなく、その苦しみの中、主イエス様と歩くことを通して、どれだけの従順を学んだかによって決まります。何を犠牲にしたにせよ、主に従うことを学んだ者は、それだけで神にとって、役に立つ者です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月25日

2月25日

イエスは彼に言われた。「わたしが道なのです。」【ヨハネ14:6】

神が人のために用意した道は、地図の上でたどる経路ではありません。それは物ではなく、人です。神の子がその目的に達する唯一の手段です。今いる場所から、神のいるところへ導くただひとつの道はキリストです。人はある発見を通して、本当の意味で神のみもとに来ます。それは、キリストは、父へと導く道を教えてくれるのではない。彼自身が道であることです。私たちが主に出会うと、主は神の元へと導いてくれます。しかし、このはじめの経験からさらに先へ進んで、いっそう明確に意識しなければならないことがあります。すなわち、父の元に近づくにはその御子を通して行う以外の道はないのです。『わたしが道なのです。』これは、私たちが初めて神の元に来たときに真実でした。それは今も真実であり、これからもずっと真実です。

しかし、数多くの心破れたキリスト者が、自分で勝利への道と考えているものを何年も求め続け、疲れ切ったまま、今日もそれを探しています。ああ、彼らは道を探しながら、ただひとつの道である主を見失っているのです。何かの技巧を用いて、罪とサタンに打ち勝とうとしている限り、私たちは撃ち負かされる運命にあります。公理、公式は自然界では役に立ちますが、霊的な国では、生けるキリスト御自身から離れて、何物も価値を持たないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月24日

2月24日

信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました【1テモテ6:12】

私たちは、人生が変わったら、言葉でそれを告白しなければいけないと考えています。行動が変わっても、それは口頭での告白の代わりにはなりません。よくこう言う人がいます、人は行いさえよければ、神のために言葉を発しなくてもよい、と。しかし、そのような立場を取っていると、人には抜け道ができてしまいます。確かに、行いがよければ、誰もその人のことを悪くは言わないでしょうが、行いが悪くても、やはり表立って非難はしないのではないでしょうか。しかし、その人がはっきりと自分がキリスト者であると告白した後は、彼が間違った行動を取れば、世界は立ち上がって、彼の言行が一致していないと非難するでしょう。

告白をしないで行動し続けようとすることは、裏口のドアを開けたままにしておくようなものです。自分に対して批判からの逃げ道を与えることで、間違った行動をしてしまったとき、失敗を初めから予期していたことになってしまうのです。抜け道を閉じてしまいましょう!立ち上がって、主に告白しましょう。神に寄り頼んで、助けを求めることによって、自分の告白と一致した生き方ができます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月23日

2月23日

さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう【ネヘミヤ2:17】

神への離脱、それは世からの分離を意味するものであり、キリスト者の生活の第一の本質です。神が、正確な尺度で、永遠に栄光の中に街があることを望まれるなら、私たちは、その街を建てる初めの一歩として、人の心に城壁を立てなくてはなりません。

ネヘミヤは当時、エルサレムの城壁を立て直すことに成功しましたが、それは壮絶な戦いでした。サタンは際立ったものを憎むため、人間が神へと離脱することは、耐えられないことです。ネヘミヤと配下の者たちは、武具を身にまとって戦いに備え、石を積み上げました。彼らのしたことに習いましょう。私たちも、神に属するもの全てを大切に護り、神へと離脱するために、何も妥協しないようにしましょう。そしりを受けてもひるんではいけません。私たちは、建てあげるために召されたのです。これが何よりも大切なことです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月22日

2月22日

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして…【ルカ6:38】

神は、どこまでも豊かに私たちの必要を満たしたいと望んでおられます。私たちがそれを受け入れればよいのです。一瞬たりとも、神に不足があると考えてはいけません。千の丘の家畜らも神のものですし、あらゆるものは神に帰属しているのです。神は与えることができないお方ではありません。神は間違いなくおできになります。しかし、私たちの方にも、しなくてはいけないことがあり、神から受けるために、満たさなければならない条件があります。神が求められるのは、私たち自身がまず与えることです。それを行って初めて、再び与えると言う神の約束がいただけるのです。

キリスト者は自分の持てる財産を、人と違うやり方で管理すべきです。世の人々は、手の内に入ってくるものを収入として計算しますが、私たちキリスト者は、外に出て行くものを利益とします。わずかばかりの収入が、不適切なものをもたらすことがよくあります。適切なものを与えることで、多くの場合、神から十分な何かをいただくことができます。あなたが何も与えなければ、主にも何かを与える義務はありません。多くの者は、神にお金を求める信仰はあっても、それを人に与える信仰を持っていません。神が与えるときは、いつでも、欲しいだけくださいます。神は、量りをよくしてくれるのみならず、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにしてくださいます。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月21日

2月21日

愛は寛容であり、愛は親切です【1コリント13:4】

パウロは、十分に知っていました。やかましいシンバルのように、中身のない言葉を次々と発するのは、実に簡単なことです。彼自身の言葉は、決して空虚なものではありませんでした。彼自身が証言しています、『私は信じた。それゆえに語った』と。この章にある愛に関する真理を教えるのはきわめて簡単なことですし、その章を暗記して、人を感心させることもできます。しかし、これを書いたものは、決して人を感心させたかったのではなく、心から思ったことを書いたのです。

コリント人は彼についていろいろと批判しました。彼はたくさんのことを話しましたが、彼が語った言葉は、人々の心に届かなかったのです。パウロは彼らのお金が必要でしたが、彼自身の立場が議論の的になっていました。彼は神から使わされた使徒ですらなかったのです。しかも、彼はいつも揺れ動いていました。彼はまず、そこへ行こうと考えましたが、後に考えを変えました。パウロは自分がひどい批判を受けていることを聞いたとき、何をしたでしょう?彼は、優しく忍耐強い愛をもってこれに応え、この手紙に、これほどまでに優麗に書き上げたのでした。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月20日

2月20日

私が、『主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。』と尋ねると、主は私に、『起きて、ダマスコに行きなさい。』と言われました【使徒22:10】

神による支配を知るまで、パウロはすべての教会を消滅させると言う責務を帯びていました。しかし、地に倒れ、イエス様が主であると認めた後、彼はそれまでと違う人になり、教会に属するもののひとり、ダマスコのアナニアに指示された方角に旅するまでになりました。彼が救われた瞬間、パウロは神のご支配に加えて、その憐れみをも知るようになったのです。

これほど高慢な性格だったパウロが、アナニアの言葉に従うことができたのでしょう。アナニアは、この出来事の他は聖書のどこにも出て来ない、無名のキリスト者でした。パウロが従えたのは、間違いなく、このとき既に神の支配下にあったからです。ダマスコに向かう道で神の権威と出会っていなかったら、その町に住む素性も知れないキリスト者の兄弟の言葉に従うことはなかったでしょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月19日

2月19日

神の国は、あなたがたのただ中にあるのです【ルカ17:21】

イエス様がパリサイ人たちにこう言われたのはどう言う意味だったのでしょう?主はただ、こう言いたかったのです、『私はここに立っている』と。誰もが知っているように、神の御国がパリサイ人たちの『ただ中』にあるはずはありません。しかし、この日、御国は彼らの間にありました。それは、その国の王が彼らの中に立っていたからです。主イエス様の臨在は、その場に、なにひとつ制約を受けない神の支配があることを表します。主のおられるところ、御国があるのです。

罪を償われたことで私たちも、御国へと入れられました(黙示録1:6)。主イエス様がおられるところだけでなく、主の教会が立てられているところにも、神の御国があります。そこでは、主は御心のままに権威を現すことができます。主の領分を私たちが用意し、そこで主の御国、主の力、そして、主の栄光が早く広まるようにしなくてはなりません。私たちにとって大切なことは、後にいただく報奨でも、王国での位でもありません。それは、神の御国を、今日、この地上で、人のただ中まで引き降ろすと言う、教会の役割を達成することです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月18日

2月18日

わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる【イザヤ45:5】

この節に、非常に奇妙なことが書かれています。バビロンを征服したペルシャの王、クロスは神を知りませんでした。それなのに、ここでは主に油注がれたと記録されています。聖書の中で、油注がれるとは、その者が何か特別な目的を果たすため、神の仕事を完遂するために選ばれたことを表します。

つまり、クロスは、世界の統治者たちが、神の目にどのように映るのかを教えてくれます。彼は、神との間に個人的な関係は何もありませんでした。それでも、彼は神の手の内にあり、それは神の意思を実現するためでした。このような地上の権力は全て神の手の中にあるのです。一人の権力者が墜ちれば、別のものが立ちますが、神はその全ての上におられます。クロスについて、神は、『私の器』と言っただけでなく、『私が油注いだもの』と呼ばれました。歴史の中の国の興亡は、神がもっと高きところから決定されます。それはただ、賢く、善き目的のために行われます

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月17日

2月17日

しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった【マタイ18:27】

ここでされた免除の中に、福音が示されているのが分かりますか?このしもべがもっと時間をくださいと願ったのは本当におろかなことでした。自分のもてるものを全て売り払い、その上、自分自身を売ってもまだ、借金を返すには遠く及ばなかったのです。彼はこう言っているのと同じでした、『時間をください。私は誤魔化すつもりはありません。借金を踏み倒そうなどと思っていません。最善を尽くします。いつの日かお金は必ず返します。』

こんなふうに主に語りかけても、決して答えは返ってきません。『よし、分かった。今、払えるだけ払って、借金の残りはこれから少しずつ返しなさい。』、主はこんなことは言いません。全てを許されます。神は、恵みを与え、御自分の心が満足されるまで与え続けます。神が何かを与えられる時、御自分の性質のままに与えてくださいます。私たちは大胆に願ってよいのです。神はいつでも、私たちが願い、考えるより、ずっと豊かに与えてくださるからです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月16日

2月16日

それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた【黙示録11:19】

神は初めはイスラエルの民に、山でモーセに示されたかたちに沿って、シッテムの木で箱か祭壇を作り、それを幕屋に置くように命じました。後にソロモンが神殿を立てたとき、箱はそこに移されました。それからずっと後、イスラエルがバビロンに捕囚されると、神の箱は失われました。文様は消え失せましたが、それが予示した事実は今も残っています。なぜなら神は最後には、天国で私たちに箱を示すからです。その事実とはなんでしょう?

この箱は神御自身の象徴でした。それは、人ではなく、神のために守られてきました。天国で箱が示される時、神が決して御自分で語られたことを翻すことはないことがはっきりするでしょう。神は、自分の約束を反故にすることも、御自身の人格に相反することもできません。ここから私たちが学ばなければならないのは、神に関する何事も、決してしくじることも、人を失望させることもありえないことです。こうして天国の一角を垣間見せることで、神は、自分に課した全ての事柄を達成されると、御自身の名前にかけて、断言されています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月15日

2月15日

どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい【エペソ6:18】

新しい信者であるほど、祈りを大切な勤めとして真剣に考え、自分のための、『祈りの本』を用意しておきましょう。これは、祈りの覚え書きとも言うべきものです。これによって、どれだけ多くのことを神に頼み、神が何度、その祈りに答えたか、あといくつの祈りが聞かれずに残っているかが分かります。

あまり細かいことを書き記すより、その本には何点か大事なことを、日々、記録しておきましょう。(1)神の子供は、世界中の人々が救われるために祈るべきです。(2)神の子供は、イスラエルの完全な復興のために祈るべきです。彼らは主に選ばれた人々だからです。(3)信者は教会のかしらに光、恵みと霊的な賜物をご自分の民に下さいと願うべきです。教会にはこういったものが本当に必要なのです!そして、(4)キリスト者なら、自分の国のために祈り、その国民が信仰のうちにあって、平和で静かな生活を送れるように願うことです。忘れがちなこういった祈りの大切さをいつも覚えておきましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月14日

2月14日

こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ【創世記42:36】

ペヌエルを出た後、ヤコブはもう神の導きを聞きたくなかったと考えるのは間違いです。彼には導きが必要であったし、導きを得たのです。リベカのうばであったデボラが死んだときから、彼にはさまざまな家族の問題が降りかかりました。彼が愛したラケルはどこかへ行ってしまいました。シメオンとレビは家名を汚しました。彼の長子、ルベンはひどい形で裏切りました。それから、ヨセフが姿を消し、ヤコブは彼が死んだに違いないと信じ込み、よみにいる愛する息子のところに下って行きたいと嘆き悲しみました。幼いベンヤミンだけが彼のもとに残されましたが、最後の宝であったこのベンヤミンも去るときがきたのです。彼には、悲しみだけが、降りかかってくるように思えました。

現実には、ヤコブは人生の最も明るい季節に入るところだったのです。彼の人生は、落ちぶれたまま終わったのではなく、ペテロ、パウロやヨハネと並ぶほどすばらしいものでした。ある意味、アブラハムやエリヤは消えていったのに対し、ヤコブは静かに、また、祝福のうちに実を結んだのでした。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月13日

2月13日

友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たちひとりひとりによろしく言ってください【3ヨハネ1:15】

友情とは特別なものだと思っていますか?友達になるとは、身分や立場を超えた関係を築くことです。それは形式的なものでも、法に基づくものでもなく、あらゆる地位の壁を打ち破るものです。不可能なことのように見えるでしょうが、人は神の友となることができるのです。アブラハムもそうでした。アブラハムがただ人間として儀礼的に行動し、また、神も、神としての儀礼に沿って行動していたなら、二人は友達にはなれなかったでしょう。

使徒ヨハネは、年老いてもその霊において富んでいました!彼は神とともにどこまでも歩き、この手紙には、兄弟とか姉妹ではなく、友人たちと書いたのです。豊かさの頂点に達した男は、長い年月を生きてきたのですから、60代、70代の相手の頭を撫でながら、『私の子』と呼んでもよかったのです。しかし、彼はそうしませんでした。自分のほうが年長であることは忘れ、代わりにその人を、『私の友』と呼びました。いつか、あなたもたくさんの歳を重ねたら、小さな子供たちを友とすることができます!

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月12日

2月12日

この奥義が…どのように栄光に富んだものであるか…この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです【コロサイ1:27】

私たちはよくこんな間違いを犯します。誰かが祝福を受けた経験を聞いて、それがどれほど貴重なものであったかを思いますが、その際、その出来事のみに目を留め、それをもたらした主を見ることを忘れてしまうのです。この結果、自分も同じ状況になって欲しいと願うあまり、敗北を味わうのです。はっきりさせましょう。主ご自身を信頼することと、形式に従うことはまったく違うのです。証しをした兄弟は、神の恵みによって、キリストとの生きたやり取りをすることができ、その結果、神の中に開放と完全な満たしを見出しました。しかし、私たちが、その人のやったことを真似ようとすれば、その経験を意味なく模倣をするだけで終わります。

形式も手順も役に立ちません。生けるキリストのみです。多くの祈りが応えられず、キリスト者のいのちが弱い理由は、主との個人的なふれあいがないことにあります。手順をなぞるだけでは不十分です。必要な経験を与えてくれるただ一人のお方のもとに行ってください!

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月11日

2月11日

きょう、救いがこの家に来ました【ルカ19:9】

神が働かれる時、らくだが針の穴を通ります。ルカ18章では、らくだは、しり込みしながら針の穴に近づきましたが、結局、通り抜けることはできませんでした。しかし、ここエリコでは、らくだはうまく通り抜けました。

何故、ザアカイはこんなふうに、お金を差し出すことができたのでしょう?それは、この日、救いが彼のもとに来たからです。彼は何の迷いもなく譲ったのではないし、泣き、祈り、大いなる葛藤の末に屈服して、与えたわけでもありません。彼は今日少しだけ差し出し、また、明日も少しだけ出し、そうするうちに全てを明け渡すように強制されたのではないのです。何十年にも渡って金を溜め込み、危険を冒し、人に軽蔑されることを厭わずに、富を築いてきた、その全てを手放しました。それは、神がこの家に救いをもたらしたからです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月10日

2月10日

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる【ヨハネ7:38】

喉が渇いているとき、主イエス様の御許に来て、主から飲むことができます。しかし、何かを求めている人に会って、コップに汲んだ水をその人に手渡すことはできません。キリストが私の中で生けるいのちの泉であることを知らせ、その求めるものを得られるよう勤めます。私が飲み続けなければいけないのは、他の人の求める物が私を通して得られるためです。

この節には、キリストの真の努めが説明されており、それは私たちに対しても開かれています。生ける水であるキリストの言葉は、初めに私たちの心に入り、満たしてくれます。そこで、また水を汲み上げ、いのちを広げて行きます。問題は、私とあなたの中を通った後で、この言葉が生きることをやめてしまうことです。大切なのは、聖書からどれだけ多くの言葉を引いて語れるかではなく、私たちから内住のキリストが流れ出ることです。そのために、いつまでも主から飲み続けなければなりません。そうしなければ渇きが癒されることはないのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月9日

2月9日

イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、…手ぬぐいを取って腰にまとわれた。【ヨハネ13:3-4】

黙示録9章において、この書の著者にとってははるか未来の出来事が描かれています。『私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上った。』これは寓意的に言い表した言葉ですが、落ちた星は、サタンのことであり、底知れぬ穴はサタンの支配する国をさしていることは明らかです。それは、サタンの宝の蔵と言っていいかもしれません。これは、サタンの力がこれまでにないほど解放されることで、終わりの時が来たことを知らされると語っています。その時、人間たちは自分が新しいやり方で霊的な力に立ち向かっていることを見出すでしょう。

このような時に聖者たちにもっとも必要なのは、霊的に回復することです。晩餐における出来事は、イエスが神から遣わされたことを、弟子たちにあらためて覚えさせるためであったと告げています。私は、こう思います。今日の汚れた世にあっては、新しい気持ちで神のもとから飛び出して、天の澄んだ空気を広げることが、神にとって何より大きな力となるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月8日

2月8日

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ【マラキ3:10】

イスラエルの民はひどい貧困の中にありました。この主の命令を何故、きかなくてはならないのかと疑ってしまったら、必ずこう訴えていたでしょう、十袋の米ですら十分ではないのに、どうやって九袋で間に合わせようと言うのですか、と。十袋の小麦でも足りないのに、九袋でやりくりすることなど考えられません。これは、おろかな人間の考えであり、神はそれをたしなめられました。神は、人にはできないことが神にはできると信じるならそれだけで、天の窓を開こうと申しでたのです。

こう言わせてください。十袋を持っていても貧しいままです。それを九袋にすることで間違いなく、真に豊かになれるのです。人は、手の内にたくさんのものを持っていれば、それだけ経済的にはよい状態になると考えるかもしれません。その人が気付いていないのは、このような考えからこそ、貧しさが生まれると言うことです。神に何かを捧げることは恵みの中に入ることです。自分の手中に取っておけば、飢えという呪いを呼び込むこともあるのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月7日

2月7日

それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった【ルカ24:31】

この二人の心はキリストの真実に対する暖かい感謝の気持ちで燃えていましたが、自分たちがどれだけ主の近くにいたか、その主との個人的な経験が、どれほど親密なものであったか、まったく気づいていませんでした。彼らが旅立つ前、マリアは、喜びに満ちて主の復活を告げ知らせましたが、彼女もはじめはそうだったように、主が近づいて来たとき、この二人も、それが誰であるか、気づかなかったのです。しかも、マリアと違って、主が語ってくれる声を聞いてもその中に何も見出さなかったのです。

主はこの二人と長い時間を過ごされました。その時間は、聖書を説明すると言う、もっとも大切な訓練のために用いられました。その時は二人とも、イエス様が救い主キリストであり、死者の中からよみがえられたことを、頭では確信していたはずです。それでも、彼らはその方が主であることに気づきませんでした。知識には2種類あるのです。ひとつは、学ぶことで得られるもので、もうひとつは、内なる視覚から来ます。その両方が必要です。キリスト信仰は聖書だけでなく、もっと多くのもの、その書物から来た霊的な啓示の上に築かれています。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月6日

2月6日

では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか【1サムエル15:14】

主の御霊はサウロから離れました。これは彼がはっきり伝えられた導きに従わなかったためです。サウロはサムエルに対して、自分は神の命令を果たしたと声高に主張しましたが、これは、彼が自分を偽ろうとしていたことの現れです。『聖絶する(utterly destroy)』という言い方がこの章でアマレクに対して7回出てきます。神は、でき得る限り自分のご意志をはっきりさせたのです。しかし、サウルの言動から、偽りに満ちた心が、完全に従うことの難しさから、なんとか逃れようともがく様子が見て取れます。

第一に彼がしたことは、何か善で、何が悪であるか、自分の判断に頼り、神が示された判決に従うことをしませんでした。二番目に彼がしたのは、神にいけにえを捧げて、物事を正そうと考えたことです。こんなやり方で神を買収することなどありえません。神が示された言葉に従う以外の選択肢などないのです。いけにえを捧げても同じことです。従うことがいつでも最善なのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月5日

2月5日

よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい【2ヨハネ1:8】

新約聖書の時代の終わりに、魂の敵が神の家への入口を見つけ、神に属していた人たちが、その道から外れることになったようです。このため、ヨハネの務めは、人を先へと導いてゆくと言うより、彼らを引き戻すこととなりました。ヨハネは取り立てて新しいことや、それまでなかったことを言ってはいません。彼がしているのはただ、既に明瞭に示されたものを、運び伝えることです。ヨハネに際立っていたのは、神の人々を元いた場所へ連れ戻したいという強い思いでした。

ヨハネにかけた主の言葉はこうでした、『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか?』わたしの来るまで!ヨハネが示した真実の御霊の支配は、物語が完結するまで続きます。ご自身の教会における神のご目的は、達成されようとしています。神を妨害できる物は何一つないのです。ですから、主イエス様が再び来られまで、信仰を持ち続けることをヨハネから学びましょう。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月4日

2月4日

私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ【詩篇34:2】

私たちは大胆に罪は踏み砕かれたと告げながらも、生きている限り、また罪に陥る可能性がいつもあることに、声を震わせます。この対照的な経験は、聖書全体を通していたるところに現れますし、キリスト者としての生活に欠かせないものです。問題は私たちが二つのうちどちらか片方にだけ注意を向けがちであることです。

一方で、聖書には、非常に力強い、あまりに極端な自信に満ちた言葉があります。『神はいつでも、私たちを導いて…勝利の行列に加え』、また、『罪はあなたがたを支配することがないからです。』とあり、これは、大胆で自信に満ちた確信です、しかし、これらの言葉を述べた同じ人たちが、どこまでもへりくだってこうも言っているのです、『私はその罪人のかしらです』、そして、『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いています。』こういった正反対の言葉を整合させるためには、こう結論するしかありません。この二つの経験が合わさって、キリスト者の生活を形成するのです。私たちはキリストの満たしを知らなければいけませんが、同時に自分たちの堕落したさまも知る必要があります。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月3日

2月3日

私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました【ヨシュア7:21】

バビロンの人々の根底にあったのは人からの栄誉を受けるための欺きでした。アカンがバビロン人の外套を取ったのは、自分をきれいに飾り付け、他のものより目立ちたかったからにすぎません。同じような罪は新約聖書の中にも見られます。アナニヤとサッピラが、聖霊に偽りを言って、怒りを買った時のことです。彼らの主への献身は部分的なものだったのに、すべてを捧げているように見せたかったのです。彼らは、主を大いに愛しているものと、皆に見られたかったのでした。彼らは、誰かの役を演じていたのです。

ここに神の子への真の危険が潜んでいます。それは、霊的であるように見せかけることです。霊的な事柄において、自分の実際の姿に合わない衣を身に着けるとき、私たちはまことの礼拝者ではなく、バビロンと同じように動いています。しかし、天の父が求めておられるのは、ただ、霊と現実において、ご自分を礼拝する者です。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月2日

2月2日

確かに、わたしは、あなたがたに、…敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません【ルカ10:19】

主の名で呼ばれたものは誰でも、この地上において、その代弁者です。私たちは神に任命された大使なのです。暗闇の力から助け出され、愛する御子の王国へと移された私たちは、天の権威を常に身に帯びているのです。

しかし、そこには重大な警告が伴います。私たち自身が神の権威に服従しなくてはいけないことです。被造物が初めは人間の支配のもとにおかれていました。それなら何故、今、被造物は人間の命令に従わないのでしょう?それは、人間のほうが神の言葉に耳を貸さなかったからです。なぜ、獅子はユダから来た神の人を殺したのでしょう(第1列王記13:26)?その人が神の命令に従わなかったからです。しかし一方では、獅子はなぜ、ダニエルを襲わなかったのでしょう?それは、彼が神の前に無実だったからです。また同じく、使徒行伝では虫たちがおごり高ぶったヘロデを食い荒らしたの、蝮はパウロの手を噛むことができませんでした。ここに来てついに、被造物が再び、神の大使に従っています。これによって、大使自身が、従順さを取り戻したのです。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』

2015年2月1日

2月1日

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った【黙示録12:11】

神の御前に、キリストの血潮の大きな意味を見るとき、あなたは、主の前には勇気をもち、人の前では証しをすることになるでしょう。罪人もキリストのゆえに許され、受け入れられると心から確信するだけでなく、あなたは神の御国を証しするようになります。『証し』とは、神がキリストにおいて得させてくれたものを、他の人に語ることを意味します。キリストが王であることは事実です。主が勝利者であり、その故に永遠のものであることは事実です。主がサタンの働きを、十字架ですべて打ち砕いたことは事実です。そして、天の御国がいずれここに現れることも事実です。

サタンは、人間が彼に話し合おうとしても恐れませんが、キリストにかかわるこれらの事実を述べ伝えることは恐れています。私たちの聖書に関する知識や、神学の議論は気にかけませんが、私たちが心からキリストにゆだねて、イエス・キリストこそが主であると明らかにするとき、サタンは屈服するしかありません。

ウォッチマン・ニー、『よろこびあふれる心』